府中のルーツ「備後国府」とは?

「府中」という名は、約1300年前に備後国(現在の広島県東部)を治める役所「国府」があったことに由来しています。現在も、地割や道路、神社など、市内のいたるところに、当時の名残をとどめています。

国府とは、約1300年前、全国を統治するために国(今でいう県)ごとに置かれた中央政府の出先機関で、奈良時代から平安時代までの約500年にわたり、その地方の政治・経済の拠点でした。また、国府では都から役人(国司)が派遣されて政治を行ったため、その地方の文化の中心地としても栄えました。

※「国府」:当時の「国」の役所のことを指すだけでなく、政治的な中心があった場所、現在の県庁所在地のような意味でもつかわれます。広島県の県庁所在地といえば広島市全域を指すように、備後国府とは府中市街地全域を指すといえます。

平安時代中頃に編纂された『和名類聚抄』には、「国府は芦田郡におかれていた」と記録されていましたが、具体的な位置は示されていませんでした。しかしながら、30年以上におよぶ発掘調査成果によって、元町を中心とした府中市街地北半に国府が所在したことが明らかになり、平成28年、「備後国府跡」が国の史跡に指定されました。

国府の中心建物である国庁はまだ見つかっていませんが、元町に所在したと推定されます。

※「国庁」:国府の中の中心的な役所、今でいう県庁のようなものです。国庁(政庁)は、政務全般を統括し、中庭で儀式をおこないました。区画された敷地を指すときは「国庁院」とも言います。

備後国府跡(国の指定文化財):古代備後国の国の行政施設である国府の跡

礎石建物跡(備後国府跡金龍寺東地区 )


掘立柱建物跡と北辺区画溝(備後国府跡ツジ地区 )

昭和42年度から行われてきた発掘調査によって,国府を構成する多様な遺跡が確認され,8~12世紀の国府の成立から衰退までの変遷など,古代国家の地方支配の実態を知る上で極めて重要な知見が得られた。ツジ地区と金龍寺東地区の2地区が指定されている。


ツジ地区大型掘立柱建物跡

ツジ地区は8世紀を中心に方一町(約109m四方)の区画溝に囲まれて大型掘立柱建物群が建ち並び,大型建物は9世紀に区画溝を失った以降も10世紀末まで存続。出土遺物は,国府系瓦(国が建設した行政施設共通の文様が施された,軒先を飾る瓦),腰帯具(ようたいぐ,古代官人の正装の帯に縫い付けた,留具や装飾具),硯や備後国内では他に例を見ない量の国産・輸入品の高級な陶磁器が,12世紀まで連綿と出土しており,文書行政や饗応などに用いられた,備後国内で最も格式高い施設の一つ。

金龍寺東地区は,7世紀に天智天皇が創建したとされる川原寺(奈良県明日香村所在)の中金堂に匹敵する規模で,国府系瓦が用いられている極めて格式の高い礎石建物跡や苑池(池を伴う庭園)遺構が検出されている。国府における宗教政策あるいは饗宴のための施設と推定され,国府の多様な構成要素の一つ。

府中市歴史民俗資料館では、府中のルーツでもある備後国府跡の関連資料を常設展示、国府のあった時代(飛鳥~平安時代)の復元衣装が展示がされています。

歴史民俗資料館利用案内
所在地:府中市土生町882-2
開館時間:10:00~17:00
休館日:祝日を除く月曜日と年末年始
入館料:無料  駐車場:約100台
問合せ先 電話番号:0847-43-4646

伊藤接骨院は府中学園正門前、教会方向へ入る。ハローズ元町店南へ徒歩3分
℡ 0847-43-1073 広島県府中市元町557-1
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